反出生主義者が考える、子供を生んではいけない理由5選

反出生主義者が考える、子供を生んではいけない理由5選 反出生主義

こんにちは、やさぐれ者だ。

私は反出生主義者であり、子供を生んではいけないと考えている。

今回は、その理由を5つほど紹介していきたいと思う。

子供がわざわざ親のために生まれてきてあげる理由がない

親が子供を生む理由のほとんどが自分の人生を充実させたいとか、幸せになりたいというものである。

他には、世間体とか自分の親に孫の顔を見せたいとか、後継ぎが欲しいとかもあるかもしれない。

そして、それらの全てに共通するのが「自分のため」というものである。

自分が幸せになりたいというのはもちろんだし、後継ぎが欲しいのだってそうだ。

親に孫の顔を見せたいというのも、それはあくまで建前で、心の底には自分の子供が欲しいという思いがある。

ただ、残念ながら、親のために子供がわざわざ生まれてきてあげないといけない理由は存在しない。

子供がどうして親の都合に合わせて、その人の利益のために、その人の子供として生まれてこないといけないのだろう。

それをする子供にとってのメリットは何だろう?

一度生まれてきてしまえば、他人と競争しなければならなくなる。

受験、就職、労働といった苦行を強いられることになる。

社会貢献を果たさなければならない義務と責任が生じる。

それをわざわざ親のためにやってあげる義理も道理もないのに、強要されている時点で、理不尽と言わざるを得ない。

子供にそういった状況を押し付けることになる「子供を生む」という行為は、とても肯定できるものではないし、やってはならない。

生まれることそれ自体が不幸である

この世に生まれることは不幸である。

そして、これは子供を生む人間ですら心の底で実感しているはずである。

なぜなら、親は子供に幸せになってほしいと願っているからだ。

もしこの世に生まれることが幸せなことなら、生まれた時点で子供は既に幸せなはずなので、あえて子供の幸せを願う必要はない。

この世に生まれることが不幸だからこそ、なんとか努力して幸せになってほしいと思っている。

つまり要約するとこうだ。

「私は幸せになりたいから子供を生むけど、生まれること自体は不幸だから、自分で頑張って幸せになってね」

また、人にとってこの世に存在することは不幸であるというのは、多くの事例によって証明されている。

例えば、友達もいない、恋人もいない、家族と仲がいいわけでもない、何もないけどただ存在しているだけの人は不幸だという常識がある。

もし「存在すること」が幸福なのだとしたら、その人は存在しているだけで幸せだというのが当たり前でないといけないし、本人がそれを実感していなければならない。

存在することが不幸なのだからこそ、人は努力してその不幸を脱却しなければならなくなっている。

幸福になるには努力が必要とされていることが、生きることは不幸であるという証明になる。

この世に存在すること、生まれることは不幸であり、それを引き起こす「子供を生む」という行為は、罪であり悪なのだ。

子供は生まれるかどうか自分で選ぶことができない

本来、契約というのは双方の合意がなくてはならない。

もし相手の意志を無視して、自分の都合だけで一方的に有利な契約を結ぼうとするのであれば、それは悪であると言わざるを得ない。

親子の契約はそういうたぐいのものである。

子供は生まれる環境を選ぶことができないし、そもそも生まれるかどうかすら選べない。

一方、親は子供を生むかどうか選ぶことができるし、生まれた子供の面倒を見ない選択もできる。

そもそも、生むことを選択している時点で、その先にある育てることも当然その選択に含まれている。

すなわち、「子供を生んで育てる」選択をしている。

確かに、親からしてみるとどんな子供が生まれるかを選べないが、そもそも優秀な子供が欲しいなんて、そんな希望を持つこと自体があり得ない。

子供が親のそういった希望を叶えてあげる理由がないし、必要性もない。

なぜなら、子供はただ一方的に親の人生に巻き込まれただけに過ぎないのだから。

じゃあどうやって子供の意志を確認すればいいのかと疑問に思うかもしれないが、それをする手段なんてものはない。

子供の意志を確認できない以上、子供を生むのは諦めるしかないと思う。

生まないことができるのにあえて生んでいるという罪深さ

人が理性のない動物であり、生まないということを考えられないほどに本能的に子作りをしているのであれば、子供を生むことは罪だと言えないだろう。

しかしそうではなく、人は理性によって生むかどうかの選択をしている。

子供を生むかどうかを考えたうえで、あえて生むという選択をしているのだから、余計にたちが悪い。

中には、子孫を残すことは生物として正しいという主張もあるだろう。

しかし私は、生物として正しいこと以上に人として正しいかどうかが重要だと考えている。

生物として正しいかどうかを最優先するのであれば、我々は服を着るべきではないし、公衆の面前で性行為をしても、それを容認しなければならない。

スマホを触ったり、テレビを見たり、お金を稼ぐというのも生物として正しい行為とは言えない。

生物として正しいかどうか以前に、人として正しいかどうかを判断するべきだし、人として正しいかどうかという観点から見て子供を生むことは悪であると主張しているわけだ。

理性的に考えて悪であると断定できる出生をあえてやっているということが、より罪深いと感じる。

動物であると主張する前に、人間であるという自覚を持ってほしい。

誰でも生めてしまうという問題

子供を生むことに資質は問われないという問題がある。

子供欲をしいとさえ思えば、誰でも手にすることができる。

もちろん、恋人がいることが前提にはなるが。

しかし一方で、労働には資質が問われる。

何か仕事をしようと思ったら、それが可能であることを証明する必要がある。

会社に就職するにも面接を突破しなければならないし、そのためには大学を出ていたり、資格を持っていることが必要とされる。

にもかかわらず、子供を生み育てることに関しては、子供を育てられるかどうかという能力を有している必要がなく、それを誰かに判断されることもない。

言わば、勝手に生んでいいという状況がある。

能力もないし、良い環境を与えることもできないのに、ただ欲しいという理由だけで生んでもよいのである。

そんな状況が許されていいわけがない。

子供に対して、自分の子供として生まれたらこんなメリットがあるよと説明できないような人間が、なぜ子供を持っても良いと考えているのか。

理不尽にも自分の子供として生まれることを強要しているのだから、当然その人の子供として生まれる何かしらのメリットがあってしかるべきだ。

子供が劣悪な環境で親の欲望や都合を一方的に受け入れ、親の人生に貢献しなければならない理由があるとは到底考えられない。

ましてやそんな環境を子供に強要していいわけがない。

良い環境を提供できない人間に、子供を生む権利はない。

総評

以上が、反出生主義者の私が考える子供を生んではいけない理由5選である。

子供を生もうとする人間は、きっとこれらの私の意見に対する反論を述べることが可能であると考える。

もしそれができないのなら、子供を生むべきではない。

なぜなら、反論できないということは私の意見が正しいことを認めたことになるからだ。

子供を生んではならないという意見を認めるのであれば、子供を生むという行為は中止するべきである。

仮に子供を生むのであれば、これらの意見に対する反論を述べよ。 以上。

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