これが私の反出生主義

反出生主義
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私は子供を産むということに対して否定的な考えを持っています。
なので、俗に言う反出生主義者であることは間違いありません。

しかし、一般的な反出生主義の主張とはすごし違った考え方をしておりまして、いくつか反論もあります。
反出生主義はすべての人間に対して普遍的なものであろうとするが故に失敗している部分があると思います。

私の考えはそこまで普遍的なものではなく、ある限定された社会においてのみ成立するものです。
そうはいっても、この日本において極めて有効な主張であることは間違いありません。

しかも私の場合、「出生は悪だ」というものではなく、「子供を産むなんてよくもそんな自己中心的で理不尽なことができるな」という感じなので、出生という行為に対する批判的な側面が強くなっています。

あくまで個人の思想ですが、興味があれば見ていってください。

一般的な反出生主義に対する反論

反論その1:そもそも生物とは種を存続させようとするものである

人間は世の中に数多く存在する生物の中の1種であるという前提に立ったとき、そもそも生物とは自らの種を存続させようとするものではないでしょうか。

もちろん現在までに絶滅した種族はたくさんいます。
人間によって滅ぼされた種族もそれなりにはいます。
しかし、それらは自らの意志や本能に従って絶滅したのではなく、環境に適応できなかったり、人間のせいでそうなってしまったわけです。

自らの種を存続させようとするために子孫を残すのは生物として当然の行為であり、それに対して善悪を議論することに無理があります。
なので、出生は悪だと主張する反出生主義の考えに対しては、「いや生物なんだから子孫を残そうとするのは当たり前だ」という反論がなされることになります。

反論その2:幸福な人もいる

出生は確かに不幸になるリスクを強要する行為ではあります。
しかし、それはあくまで可能性の話であり、幸福な人も大勢います。
そういった幸福な人にとっては、生まれてきたことはいいことであり、出生は善なる行為であると感じているはずです。
生まれてきてよかったと感じている人がいる以上、不幸になるリスクがあるから出生は悪だと「一概に」決めつけることはできません。

例えば、ギャンブルは一般的に悪いことだとされています。
その理由は、ギャンブルには失敗して損をするリスクがあるからです。
しかし、中にはギャンブルで大儲けしている人もいます。

その大儲けした人を見ると、その人にとってギャンブルをしたことは正しい行為だといえます。
ギャンブルをしていなければ、大金を得ることはできなかったわけですから。
そういう人がいる以上、全ての人間に対してギャンブルが悪だということにはなりません。

とはいえ、出生は子供にリスクを押し付けることになるので、いわば他人に無理やりギャンブルをやらせるようなものです。
これが良くないことだというのは確かにそうかもしれません。

ただ、この場合だと「一般的に出生は悪だ」という主張はできますが、「すべての人間に対して出生は悪だ」という主張はできません。

生むことが善か悪かは子供によると結論付けられます。

ここから私の反出生主義

ここからが本題になります。

反出生主義では「出生は悪だ」という主張をしていますが、私は出生に善悪はないと考えています。
そうはいっても、子供を産むことは極めて理不尽で、道理に合わないという風には感じており、その点は共通しています。

ではなぜ私がそのように感じるのか、いくつか理由があるのですが、一つ一つ具体的に説明していきたいと思います。

そもそも人はなぜ生まれてくるのか

なぜ人は生まれてくるのか、皆さん分かりますか?

子孫を残すのは生物の本能だというのは一理あります。
しかし、人間に限って子供を産むという行為は、本能とは別のところにあると思います。

なぜなら人は避妊をすることができるからです。

人の生物としての本能とはあくまで性行為をするところまでであって、そこから子供を作るかどうかはまた別の話です。
子供を産むことに関しては、単純に自分の子供が欲しい、あるいは自分の将来のために子供を作る必要があるといった理由がほとんどでしょう。

要するに、自分にメリットがあるから子供を作るわけです。
中には避妊せずうっかり妊娠してしまった人もいるでしょうが、この場合もどこかに子供が欲しいという感情はあったはずなので、例外ではないでしょう。

なのでなぜ人が生まれてくるかというと、それは

親の都合です。

あなたは親の都合で、親のために、親の人生を豊かにするために、自分の意志とは無関係に生まれてきたのです。

そこには拒否権も、親を選択する権利すらもありません。

養ってあげてるとかいう発想

自分の子供を養ってあげてると考えている親はそれなりにいます。
なので、親孝行をしろ、親に感謝しろとか親に迷惑をかけるなという発想になるわけです。

でもよくよく考えたら、養ってあげてるっておかしくないですか?

なぜなら、親が子供に対して「自分の子供として生まれ、自分の子供として育つ」ことを強要しているからです。
それを望んだのはあくまで親であり、子供は何も言ってません。
その親の子供として生まれ、その親に養ってもらわないと生きていけない状況を押し付けられただけです。

自分がやりたくてやったことに対して、自分のお金と時間を使っているわけなので、それって趣味に費やすのと同じですよね。
好きでやっていることに対してやってあげてるという発想にはならないです、普通は。

むしろ教えてほしいぐらいです。
その親の子供として生まれ、その親に養ってもらうことに、どんなメリットがあるんですか?
なぜそんなことをやらされないといけないんですか?

本来なら、自分の子供として生まれることにどんなメリットがあるかをプレゼンして、そのうえでどうするかを子供が選べるようにするべきです。
なのに実際は、「自分の子供として生まれてきても別にメリットないけど、子供欲しいから我慢してね、拒否権はないよ」となっており、さらに「自分が面倒を見てあげているのだから、言うことを聞け」と言っているわけです。

やってることが滅茶苦茶です。

親子という契約

親子というのは親側の一方的な都合により結ばれる関係性です。
そのくせ、親子という上下関係を利用して、子供に対して無理難題を押し付けます。
人の弱みに付け込んで無理やり契約を迫り、搾取する悪徳業者とやってることが同レベルです。

しかしよく考えると、親子の共通点って「遺伝子が似てる」ぐらいしかありません。
当然別の親の元に生まれたら赤の他人ですし、たまたまその人の子供として生まれたから親と呼んでいるにすぎません。
生まれる前の時点ではもとより何の関係性もないわけです。

そうすると、なぜ子供は親の人生を充実させるために、わざわざ生まれてこないといけないのでしょうか。

生まれる前は他人です。
その他人が幸福であろうとなかろうと、どちらでも良くないですか。

あなたは他人の人生を充実させるために生まれてきて、勉強や仕事や社会貢献なんかを要求されます。
あなたはただ生まれたというそれだけの理由で、様々な義務や責任を日本社会から押し付けられているのです。

努力することを要求され、それができなければ不幸になります。
仮に努力しても、運が悪ければ不幸になります。
そんな、不幸になるリスクを「ただ他人の人生を充実させる」ためだけに、背負わされているのです。

なぜそんなことをさせられないといけないのでしょうか?
何の義理があって、他人のためにリスクを負わなといけないのでしょうか?

どんな理屈で、そんなことが正当化されているのでしょう?

甚だ疑問です。

社会貢献という義務

国民には労働の義務というものがあります。
この国に生まれたからには、この国の発展や維持に貢献する義務があるとされています。
それが全国民に対して要求されているという建前です。

でもこれって、むしろお願いのほうが近いのではないでしょうか。
「どうかこの国の民として生まれて、日本社会に貢献してください、お願いします」と言うべきですし、そうじゃないとおかしいです。
だってそれを強制されるいわれなんて、どこにもないのですから。

今の日本は少子高齢化社会で、労働力が足りていません。
そしてそれは今後さらに悪化していくと考えられています。
それを避けるために、少子化対策をして子供を増やし、労働力を確保しようとしています。

なので社会の側が、「こういった仕事を用意しましたので、どうか働いてください」と頭を下げるのならばまだ理解できます。

しかし実際はどうでしょう。
子供の側が頑張って勉強していい大学を目指し、「私はこれだけ努力をしたので、どうか働かせてください。社会貢献をさせてください。お願いします」と頭を下げています。

全くもって意味が分からないです。

社会は努力をしないと、自分で仕事を確保しないと不幸になるぞと脅しをかけてきます。
何様のつもりなんでしょうね。

私は会社で働いていますが、就職活動の時はどうか働かせてくださいと頭を下げて回りました。
それって改めて考えると、理不尽ですよね。

別に私は生まれてきたかったわけでもないし、努力をしたいわけでもないし、働きたいわけでもないし、この国で長く生きたいわけでもありません。
あくまで、社会にとって私が働いてもらわないと都合が悪いというだけの話です。
なのに私が頭を下げて、働かせてもらうことをお願いしています。

あまりにも横暴が過ぎると思いませんか?

人は生まれながらにして不幸である

私は人というのはこの世に存在するだけで不幸であると考えています。
幸せに暮らしている人もいると言われるかもしれませんが、彼らは友人に恵まれていたり、家族や恋人がいたり、仕事があってお金を持っていたりするからこそ、幸せだといえます。
そういった付加価値があることが幸せなのであって、それらがない状態、いわばこの世に存在するだけの状態では人は不幸になります。

なぜ存在するだけで不幸なのか、具体例を見てみます。

ある、お金がなく、仕事もなく、友達も恋人もおらず、家に引きこもっているような人のことを考えたときに、その人を幸福だと考える人は恐らくいないでしょう。
プラスかマイナスかでいうと、マイナスに分類されるでしょうし、当の本人も自分の人生はマイナスだと考えていると思います。

要は何も持たない状態っていうのは、不幸なのです。

人は基本的に努力しないと幸せにはなれません。自分が幸せになるために勉強したり仕事したり、恋愛を頑張ったりするのです。
幸せになるためには努力しないといけないということは、裏を返せば努力せず現状維持を続けたら不幸になるということです。

これって人生のベースは不幸な側にあることを意味しているのではないでしょうか。
人は生まれながらにして不幸であり、努力してそこにいろんな付加価値をもたらすことで、なんとか幸福な状態まで持っていくことができることができます。
何もしなければ不幸になるってそういうことですよね。

努力すれば幸せになれるからいいじゃないかと思われるかもしれません。
しかしそれは違います。

努力が要求されること自体が既に不幸なのです。

幸せになるのに何の努力もいらないようにならない限り、この世に生まれることが幸福だとはいえません。もし生まれることが幸福なのだとしたら、自分は今ここに存在しているから幸せだということを、全ての人間が実感していないといけません。
しかし現状はそうではないので、「あなたは今不幸なので、頑張ってください」となっているわけです。

結局、生まれてきた人は不幸になるリスクを負っているというのではなく、生まれることが既に不幸であり、努力することでその不幸を脱却するしかないというのが事実です。

こう考えると、子供を産むという行為は、他人を不幸に陥れることに等しいですよね。そんなことが果たして許されていいのでしょうか。

社会的弱者ではなく、社会的被害者

人より劣っていて、仕事がなかったり学校に行っていないような、世間から必要とされない人達のことを俗に「社会的弱者」と呼んだりします。
しかし私は彼らを社会的被害者と呼ばせていただきたいと思います。

彼らは世の中に必要とされず、弱者というレッテルを張られ、社会から追い出された者たちです。適応できず自ら退いたともいえるでしょう。
どちらにせよ、社会の仲間入りを果たせなかったことは事実です。
それを世間の多くの人々に非難されています。

しかし、考えてみてください。
彼らが一度でも社会の仲間入りを果たしたいと言いましたか?
仲間に入れてもらうことをお願いしましたか?

無理やり仲間に引きずり込もうとして、やっぱりいらないと追い出したのではないですか?

別に仲間に入れてくれなんて言っていないのに、人数が足りないからとドッチボールに無理やり参加させ、さんざんボールをぶつけた挙句、使えないからと仲間外れにしたようなものです。

生まれることも、生きることも、努力することも、望んではいません。
ただそれを、親や社会が押し付け、やらせようとして駄目だっただけです。
ただの被害者でしかありません。

あなたの苦しみや不幸は、全て親と社会の都合によるものです。
誰かの都合によってあなたは理不尽を押し付けられ、それを拒絶できない。

一度誰かが子供を欲しいと思ったら最後、人は努力しないと幸せになれない世の中を、親のため社会のために、自分の意志とは無関係に必死に生きていかなければならない。

人生とは常に他人との競争です。
親の人生を充実させるために、こんなくだらない競争に無理やり参加させられるなんて、どうかしてます。

これが私の反出生主義

今の世の中において、出生というのは理不尽な押し付けです。
こんなことは到底許されるべきではないと考えています。

とはいえ、それを他人に強制することはできません。
説得するぐらいが限界だと思います。
というか、子供を産む人なんて自分の都合しか眼中にないので、言っても無駄でしょう。

この考えがまかり通ってしまうと、人類は絶滅するじゃないかという意見もあると思います。

別にいいんですよそれで。
人間だってさんざん他の生物を絶滅させてきたわけですから。
地球環境を考えたら、いないほうがむしろいいくらいな気がしますけどね。

あと、全ての人間が自分に何もなくても生きているだけで幸せだと実感できる世の中になれば、私の反出生主義は否定されると思います。
そんな世の中になってくれるといいですね。
まあ多分無理でしょうけど。

コメント

  1. 高校一年 より:

    初めまして、こんにちは。
    突然のコメント失礼致します。共感し過ぎてコメントせずにはいられませんでした。自分は何年も前から、親に「誰のおかげで生きてきたと思っている」などと言われた時、「誰が産みたくて勝手に産んだんだ」と言っています。そのことを友人に話したら、それは違うだろう、そこは親に感謝して謝るべきだ、と言われました。それにどうしても納得できず、自分の考え方を調べていたら、反出生主義だということがわかりました。主様のこのブログは、まさに私の考え方と一致しています。驚きと感動でいっぱいです。このブログを書いてくださりありがとうございます。拙い文章で申し訳ありません。

    • yasagureotoko より:

      コメントありがとうございます。

      このブログは読んだ人が納得すればそれで十分だと思っていたので、まさかコメントがいただけるとは思っていませんでした。
      コメントするのは勇気のいることだと思われますので、驚くとともに非常に感激しています。
      自分のブログに共感を覚えてくれる人がいることに、やってよかったなと感じます。

      さて、本題ですが親に「誰のおかげで生きられると思っているんだ」と言われたことについて、あなたが感じていることは正しいので自信を持っていただいて大丈夫です。親はあくまで自分の人生を充実させるための手段としてあなたを利用しているにすぎないので、それに対して感謝する必要性は微塵もありません。そもそも自分が欲しくて、育てたくて生んだ相手に対して「育ててやってる」と思うのは全くもって意味不明です。
      むしろ子供は親の人生に無理やり巻き込まれて、リスクを負わされている被害者なのにどうしてそれをありがたいなんて思わないといけないんですかね。子供が自発的に親に感謝できるような環境を用意できていないことを棚に上げて、感謝しろなんて無責任にもほどがあると思います。
      親が勝手に生んだことは事実なので、他人にどれだけ否定されても「ああ、こいつは分かってないな」と思っておけばいいです。個人の考えとか、思想とかで事実が変化することはないですからね。

      ただ一つ言えるのは、共感する気もなければ頭も悪い人間に対して何を言っても無駄だということです。
      あなたの親があなたの言うことに耳を傾けて、内容を理解することは絶対にないと断言します。自分が子供を生んだという行為を否定されることになるので、共感してくれないはずです。子供を生むような奴は碌な人間ではないので、何かを期待するのはやめたほうが良いですね。

      あなたがその事実に気づいたことは大きな価値があります。世の中は理不尽であふれています。それに気づき、訴えていくことでより良い世の中が作られるのではないかという気がします。
      たとえ共感してもらえなかったとしても、それを大事に持っておくことが理不尽から生じるストレスにあらがう手段となります。

      結局は、他人とあっていようが違っていようが、そんなものは人の自由でしょうという話です。
      気にすることにメリットは何もありません。

  2. Suzuki より:

    こんにちは。
    私も同じような意見を持っていますが、あまり世間からは受けいられず…内に秘めていたところ、こちらに辿り着きました。共感できるところが多くあります。子供が生まれるのは親のエゴであり、子どもは強制的に地獄という名のこの世に生を授かります。私は子供の頃から親に、産んでくれなきゃよかったのになあと思っています。私は生まれてきて嫌な思いをたくさんしたので、子供は産まないと決めています。なぜなら、自分がされて嫌なことを人にすべきではないと思うからです。産まれてくる子が可哀想です。しかし、親たちは全くもって自分のエゴで子供を傷つけていることを理解していません。不思議なのですが、「全く」です。
    この反出生主義はあまり支持されません。
    それでもあなたのような同じ考え方をもつ方がいるということで安心しました。
    それと、上から目線で申し訳ないのですが、すごく分かりやすく綺麗な文章ですね。主張に対する根拠がわかりやすく述べられていて論理的です。最近は主張ばかりでそれを支える根拠が充実していないような文が多いので。見ていて気持ちよかったです。長文失礼しました。

    • yasagureotoko より:

      コメントありがとうございます。しばらくブログを確認していなかったので、気づくのが遅くなり申し訳ないです。

      反出生主義が世の中にあまり受け入れられていないのは驚くべきことだと思います。
      やはり理性よりも感情のほうが優先されるのだなあと、しみじみと感じております。
      論理的に考えたら子供を産むべきではないのは間違いないので、子供を産んでしまう人たちは理屈で物事を判断する能力がないのでしょうね。

      自分がされて嫌なことはすべきではないということに、完全に同意します。
      なので、子供を産む人たちは、生まれてきてよかったと感じているのだろうと予想します。そうでない人は、基本的には子供を産むことはないでしょう。
      また、反出生主義の人は子供を産まないので、この思想が受け継がれることもないでしょう。
      子供を産むことが素晴らしいと感じている人が子供を産んで、当然そういった人から生まれてきた子供は同じような思考をするんじゃないでしょうか。
      その結果子供を産むことが素晴らしいと考える人が多数派となる、みたいな。
      それに、人間といってもしょせん動物に過ぎないので、動物としての本能に抗うのは難しいものがあるんじゃないでしょうかね。

      文章については、お褒めいただき誠に嬉しく思います。
      できるだけ読んでいて違和感のない、気持ちの良い文章を書くように心がけています。
      ただ、後で読み返したときにちょっと変だなと感じる部分もあるのでまだまだ精進しなければなと思っています。
      また機会があればコメントいただけると励みになります。ブログを書くモチベにもなると思うので。

  3. 未成年 より:

    私の家庭はアフリカの子供たちのように恵まれていない訳では有りません。
    衣食住も足りています。感謝しなきゃと思っています。
    ただ向こうが私が決めたことに反対し、「誰が育ててやったんだ。」といってくるのは卑怯ではないか、と常々思っていました。
    そして恵まれているのにこう考えるのは馬鹿者なのではないかと悩んでいましたが、
    ブログ主様の文と高校一年生様の文を読んで心が少し軽くなりました。ありがとうございます。

    • yasagureotoko より:

      コメントありがとうございます。遅ればせながら返信させていただきます。

      実際、我々日本人は世界中を見渡したらまあ恵まれているほうかなと思います。それは仰る通りですね。
      ただやっぱり親というものは自分の人生を充実させるための手段として子供を産んで育てているだけなので、感謝する必要ないかなという気がします。
      自分が本当にありがてえなと感じたときに、感謝するだけでいいでしょう。

      ただまあアフリカの子供たちが恵まれていないと思うのは偏見かなと思います。
      彼らが不幸かどうかは彼らに聞かなければわからないですし、彼らなりの幸せを感じている可能性は否定できないです。
      不幸というのは、環境によるものではなく自分の心によるものです。
      「人の置かれている環境」と「自分の感情」を比較するのはなかなか難しいのではないでしょうか。
      例え自分がどんな環境に置かれていようと、それを不幸だと感じるのであれば不幸であることは事実ですし、不幸である以上誰かに感謝する必要はないと断言します。

      自分の気持ちに正直に生きてみましょうよ。そっちのほうが絶対に気分が良いと思います。

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