私はやさぐれ者です。
基本的にポジティブな考えは持っていません。世の中に対する不満や憤りを感じて生きています。
この世とはやはり理不尽の極みであると思います。生まれることからして理不尽であり、様々な無理難題を要求されます。
それらに対しての拒否権は基本的に与えられていません。抗うすべがないとうのが現状です。
私がこんな風に、世の中を否定的に見てしまうようになったのは自分の人生があまりうまくいっていないことが原因です。そもそも上手くいっている人なんて、そんなにいないような気もしますが。
そんなやさぐれ者の、自己紹介的なことをやっていこうかと思います。
今ってどんな感じ?
今現在において、一応社会人として働いています。と言っても、就職して一年もたっていない半人前ですが。
こんな奴が偉そうに世の中とか、人生について語っているのがこのブログです。
人生経験も大してないやつが何を偉そうにと感じる方もいるかもしれません。
しかし、重要なのは誰が語るかではなく、何を語るかであるということをここでは主張しておきます。あしからず。
就職して働いている人間ですが、正直言うとあまり働きたくはありません。労働意欲はかなり低いです。もし宝くじで5億当たったら、多分仕事はやめるでしょう。それくらいのモチベーションで働いています。
自分の仕事が何かの役に立っているとか、そういったことを実感することはそれほどありません。世の中の役に立ちたいと思っているわけでもないし、自分の生きた証を残したいと考えているわけでもありません。そんなものは必要ないです。
自分の意志で働いているわけではなく、働くことを余儀なくされているために、仕方なく働いているというのが現状です。人として生まれてきた以上は、そうすることを避けようがないということです。とはいっても、世の中には働いていない人は大勢います。避けられないと言いつつも、無理やり避けることは可能です。
なので、避けられないというよりは避ける必要がない、避けないほうがいいというのが正確でしょうか。私は常々「人として生まれ方からには、労働しなければならない」というのは、あまりにも理不尽な暴論だと思っています。それを訴えるにあたって、自分が働いているという状況は、自分の主張に説得力を持たせることに大いに役立っているといえます。
働かないことを肯定するために、働いているといっても過言ではないです。
労働についてはこのくらいにして、自分の人間性について語っていきます。
私は人と関わるのが苦手です。コミュニケーションについて昔からずっと苦手意識を持っています。人の話を聞くのも苦手ですし、自分の話をするのはもっと苦手です。人と何か会話しなければならない状況になった時は、まず何を話そうかを考えることから始める癖があります。
また、精神的に余裕があるときは会話をすることはそれほどストレスに感じないのですが、余裕がないときは人と会話するのが非常に煩わしく感じられます。なので、できるだけ目を合わせないようにしたり、避けてしまったりします。
そんなわけなので、自分は社会人に向いてないと常々感じています。それを実感しているにもかかわらず、そんな人間ですらも働かないといけないというのが厄介ですよね。勘弁してくれって思います。
人とコミュニケーションをとるのが苦手な人間なので、当然彼女ができるはずもなく未だ童貞です。異性の知り合いとかもいないですし、ろくに会話したこともありません。
異性に対する苦手意識は結構強く、対面した時にどうふるまえばいいのか全く分からずおろおろしています。
幸い現在の職場は9割が男なので、仕事の上で接点はほとんどありませんが。
やさぐれ者への道筋
私は子供のころからひねくれたものの見方をしていました。誰かがいいことを言っても、所詮きれいごとに過ぎないと感じていたり、立派な人間になるためにはこうしないといけないみたいなことに対して常に否定的でした。
個性を尊重とか、みんな違ってみんないいと言いながらも、特定の理想的な人間像を押し付けられる状況に矛盾を感じていました。そもそも素晴らしい人間には、そうなれる才能のある人間にしかなれないと思っています。その才能がなかった私は残念ながら素晴らしい人間にはなれませんでした。
そうは言っても、幼いころっていうのはほとんど差がありません。ほとんど個性と呼べるものはないのではないでしょうか。環境や経験で成長するにつれて、個性がついてきます。個性の種みたいなものが生じ、それが芽を出して育っていきます。そして次第に、どう頑張っても摘み取れない強固なものとなっていくのです。
私は幼いころに経験したトラウマがあります。出来事としてはそれほど大げさなものではないのですが、韓国に家族旅行で行った帰りに空港で働いているおばちゃんにすごく気にいられて、抱きつかれたり持ち上げられたりしました。当時の私には人見知りの片鱗があったので見知らぬ人に抱擁されるのは恐怖でしかありませんでした。それ以来、よく知らない人に対して苦手意識を持つようになりました。それが全てであるということではないですが、人とコミュニケーションをとるのが苦手という個性の芽が出るきっかけにはなったかと思います。
とはいえ、そういうきっかけがあったとしても、環境さえよければ人見知りを解消することもできたかもしれません。しかし、私の場合は自分以外の兄弟や両親がかなりアクティブで外向的な人間でしたので、自分とは真逆のタイプでした。家族で食事に行っても、基本的に自分から話すことはなく、話を振られるとそれに応じる程度でしたので、皆が何かの話題で盛り上がっていても自分だけ隅っこで無言で食事をしていることが多かったです。
家族に対してはなんとなく疎外感を感じながら接しています。とはいえ、大学に入ってからずっと一人暮らしなので、あまり接点もないですが。
その疎外感を感じる出来事として特に記憶に残っているのが、私が知らないところでいつの間にか家族のグループラインができており、後出しでそれを知らされた時はちょっと寂しい気持ちになりました。
そんな環境で自分のコミュニケーションスキルが向上するはずもなく、現在に至るまで人と関わるのが苦手なままとなっています。
まあ言い訳がましいと言われると否定しづらいのですが、人の個性というのは修正できる環境なり、経験がないとずっとそのままであるということです。疎外され、孤独に生きてきた人間のなれの果てがこの私です。
そんな訳なので、世の中に対して不満を抱いて穿った見方をするようになりました。人生に満足していないのだから、世の中にも満足することもありません。
人生というのは私にとって押し付けられたもので、無理矢理人間という役柄を演じさせられているのだと思っています。
向いていないのにも関わらず、そうしてくれると都合がいいという世間の要請により演じざるを得なくなっています。
やる気もない、やりたくもない、面白くない、そんなクソゲーをやってくれると嬉しいからという理由で、親にやらされているわけです。
そう考えると、人生ってあまりに無駄です。自分がこうやって頑張って働いて生きていって、それでどうなるというのでしょうか。
何も持たずに生まれ、何も得ることなく生きてきた結果私はやさぐれてしまいました。
私はやさぐれ者なので、これからも世の中を否定していきます。
どうぞよろしく。
やさぐれてしまった男の人生
世の中に不満を持っている人はたくさんいます。そのたくさんいる人のうちの一人が私です。なんの目的もなく、生まれてしまった者の責務として生きているだけの人間です。
そんな人間が、ブログをやって何かを発信しようと考えました。いくら世の中に不満を持っていても、それを訴えなければ共感を得ることはできません。
今の世の中はそれを不特定多数の相手に対してできるようになったという点で、技術の進歩とは偉大だと実感します。
すでにいくつか記事を投稿しており、その中にはポジティブなもの、ネガティブなものの両方があります。それらはこの腐った世の中からいかに汚染されずに、健全な精神を保つかということを意図して書いております。
そういった記事をどんな人間が書いているのかということをこの記事を通して知っていただくというのが目的です。家族とも疎遠で、ろくに友人もおらず、会社では極力人を避けて生きているような人間でもなんとか頑張って生きているので、そういうやつがいるんだと知ってわずかでも勇気を与えられると幸いです。
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