最近はなにかと芸能人が自殺したというニュースを目にすることが多い。そういうニュースを目の当たりにすると、残念でならない。だがしかし、悲しいとかショックだとか、そういった感情はなく、あくまで客観的事実として受け取っている部分がある。別に私がその人たちと直接かかわったわけではないため、受ける印象は他の一般人の自殺とそれほど変わらない。確かにびっくりはしたが、案外冷めているものである。人の感情なんてものは得てしてそういうものなのだろう。
とはいえ、思うところがないわけではない。人が死ぬというのは常に残念であり、可能な限り避けなければならないことは確かだ。と同時に、この世の中、苦しい中でも頑張ってなんとか生きていかなければならないほど価値のあるものなのだろうか、という疑問もある。避けなければと言うわりに、実はそれほど自殺に対して否定的な立場ではなく、自殺しなければならないという明確な理由があるのであれば、仕方がないと考えている。彼らにもきっとそうする理由があったのだし、自分の命なのだから、それをどうするかを決める権利は当人にある。赤の他人がどうこう言うことでもないだろう。
ただ、そういったこと以上に今回の件で私が特に強く感じたことが、人が幸せになるというのは非常に難しいということだ。難しいどころか、人は存在するだけで不幸だとすら考えている。ただ、そのような持論を抜きにして、単体でこの件について考えていきたい。
芸能人たちの自殺で特に感じたことは、「人はどんな状況にも不幸を見出してしまう」ということだ。どれだけ恵まれていようが、恵まれているように見えようが、関係ない。自分が今置かれている状況の中から、不幸を見つけ出すことが誰にでもできる。それを根拠に自分は不幸だと主張することができる。それがどういうことか、詳しくみていこう。
傍から見ると幸せそうに見えるだけ
三浦春馬、竹内結子といった芸能人は、私のような人間からすると充実した人生を送っているように見える。収入もあり、人に囲まれ、多くの人に必要とされているだろうことは想像に難くない。恋人や家族がいたりと、少なくとも現在の私にない多くのものを有している。にもかかわらず、苦しんでしまった、不幸を感じてしまったというのは、そんなことでは幸せだと言えなかった、あるいは幸せであると同時に不幸でもあったということなのだろう。
一般的に幸せだと言われていることと、それを手にした人が幸せを感じれるかということは別である。重要なのはその人が何を幸せだと感じるかであり、一般的にこうなれば幸せになれるだろうと考えられているようなことが、その人にとっては何の価値もなかったりする。自分ですら、こうなれば幸せだろうと思っている状況にいざ身を置いたときに、本当に幸せになれるのかどうかは定かではないのだし。つまるところ、
幸せなんてただの妄想です。
幸せなんてものはこの世に存在しないのかもしれない。全ては妄想であり、幻想にすぎないのかもしれない。幸せがまるで存在するかのような錯覚をしているだけかもしれない。
芸能人ですら自殺をする。これはすなわち、どんな状況であっても人は不幸を感じることができることを意味している。
具体例を見ていこう。恋人がおらず、恋人が欲しいと思っているような人は確かに不幸かもしれない。しかし、実際に恋人ができてしまったら、相手とうまくいかないとか、自由がないとか、お金を使ってしまうとか、そういった別の問題が生じることがある。極端な場合、恋愛によって生じた不幸によって自殺してしまうこともある。ただ、そういった問題があったとしても、いない人からすると、恋人がいるだけで幸せじゃないかという気がする。一方、恋人とうまくいっていない人にとっては、独り身であることは、束縛もされず自由で、うらやましいと思うかもしれない。結婚して子供を作りたいと思っている人にとって独身であることは不幸だろう。一方で実際に結婚して子供がいる人にとって子育てが大変であることを不幸だと感じることもあるはずだ。
一見すると幸せそうに見えるからといって、必ずしも幸せだとは限らない。今の自分を構成する要素を100として、そのうち90が十分に満たされていても、残りの10が満たされないことを不幸だと感じることが、人にはできてしまうのである。全てが充実している人はまれだ。1つでも不満や悩みがあれば、それだけで不幸になれる。これがあるから自分は不幸だと言えるのだ。
仕事や家庭がうまくいっていても、友人とうまくいっていないとか、将来に不安があるとか、そういった欠陥があると「この部分では確かに充実してるが、ここが足りてないから幸せとは言えない」となる。人が満足して自分が幸せだと言うには、悩み一つない、全てが充実している状態になるしかない。そんなのはあまりに非現実的だ。
以上のことから、人が自分は幸せだと主張することはとても難しく、勇気のいることであると結論付ける。人は何かしらの悩み事を抱えているときに、自分は幸せだと言うことには抵抗を感じるのだろう。そう考えると、人のベースは不幸にあるのだと改めて思わされる。人は基本的に不幸であり、あらゆる点で欠陥のない恵まれた状況にあって初めて、ぎりぎり幸せだと言うことができるようになるのではないかと。
結局みんな不幸なのだ。不幸という枠の中でもがき、なんとか脱出しようと頑張っている。自分がたまたま不幸なのではなく、あらゆる人間にとって不幸であることが当たり前であり、それが普通なのである。
幸せになる方法
人が幸せになる方法は二つしかない。
一つは行動して自分の状況を変えることだ。自分が幸せだろうと思う状況になるための行動を起こすことで、少なくとも今の自分が抱えている悩みは解消される。ただ、これには問題がある。まずそもそも行動を起こすことが簡単ではないということだ。恋人がいない人が相手を探すとか、仕事がない人が就職活動をするとか、成績が悪い人が勉強をするとか、そういったことは口で言うのは簡単だが、実践するのは結構難しい。失敗する可能性も十分にある。また、行動を起こしたことによって別の悩みや苦しみが生じることもある。それを達成したとしても幸せになれる確証はなく、それらはあくまで自分がそうなれば幸せだろうと自分が想像しているに過ぎないのであり、実際にそうなったときに幸せかどうかは、なってみて初めて分かることである。むしろ、どんな状況でも不幸を見出すことができるという前提に立てば、行動を起こしたところで状況が一つ改善されたという程度のものに過ぎない。それが幸せかどうかは別だ。
幸せになるもう一つの方法は、価値観を変えるというものだ。「自分はこれがあるから不幸だ」と言えるのであれば、「自分はこれがあるから幸せだ」と言うこともできる。自分の中の幸せな要素を見つけ出すことは、できないわけではないはずだ。それをあえてやらないだけで。極端な話、自分は今生活できてるから幸せですと言ってしまうことすら可能だ。何を幸せとするかはその人のさじ加減で、わざわざ自分は不幸ですと言わなくてもいい。どう判断するかは人の自由。ただ、自分は幸せですと言おうとすると、何か引っかかるものがあってブレーキをかけてしまう。言えなくはない、ただ言うのが難しい。それに、価値観を変えろと言われても、それはそれで難しいと感じられる方も大勢いるはずで、私自身ですら自分が今幸せだと言うにはかなりの抵抗があるのも事実である。
じゃあ結局幸せになれないじゃん、という話になってしまいそうだが、結論を言うとその通りだ。人は幸せになることはできない。よっぽどのことがない限りは。なので諦めが肝心である。幸せになろうとしなくていいし、そもそも幸せでなくていい。別に人は幸せになるために生きているわけではない。生きるべきであり、生きなくてはならないからこそ生きている。ただ、それだけのことだ。幸せなんてのは副次的なもので、「なくて当然。あって嬉しい」という程度のものでしかないのだ。不幸上等、不幸な人生を当たり前に生きてしまえばいい。全てが満たされている状態なんてのはこの世に存在しない。
人は皆不幸
男だろうと女だろうと、子供だろうと年寄りだろうと、貧乏だろうと金持ちだろうと、人から大切にされていようといなかろうと、自分の人生が多いに充実していようとも、人は自殺することがある。こうなると、もはやどうなれば人は幸せだと言えるのか、何も分からない。お金があっても、家族がいても、人に恵まれていても、不幸を感じることがあるのなら、一体何を目指したらいいのだろうか。
実は、幸せという空想上のものにすがってもがいているその状態こそが、その状態だけが、不幸なのかもしれない。この世に存在しないものを求めてしまっているのかもしれない。世の中には自分は幸せだと言う人も確かにいるが、それはその人がその状態を幸せだと認識しているだけで、全く同じような状況の別の人が同じように感じるとは限らない。
幸せっていうのは非常に危ういバランスの上に存在する、ちょっと綻びが出ただけで一気に崩壊してしまうものである。ほんの少しの間だけ幸せになることに、何の意味があるのだろう。
どんな状況でも不幸を見出すことができるのならば、もはや不幸を当たり前に、不幸上等で生きていくしか選択肢は存在しないような気がする。
才能もお金もある芸能人ですら自殺するのだから、才能もお金もないはるか格下の自分が幸せになるなんて、無謀にも程がある。もう諦めるしかない。そんな幻想に追いすがるのはやめて、幸せなんて存在しないと決めつけて、私は「不幸な人生」をやっていくことにする。
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